無限ワンアップ・改

さゆゆのメモ箱

セーブしたい

あの子、たくさんのいいねに埋もれてきっとそう遠くない未来死んでしまうんだろうなと思った。不特定多数の好意、善意、そして悪意、たくさんの矢印があの子に向いている。でも早めに死んだほうが幸せなのかもしれない。あの人の本気は噂より大したことなくてガッカリした。ここ片田舎の集落に住みながら世界と繋がるにはインターネットしかなくて、ずっとスマートフォンの中で生きていけたら楽しいのかもしれないけど、そんなの絶対絶対不健康だしおかしいぞって、心の中の老害が叫んでる。私もそうだと考えてる。インスタと顔本とツイッターとハム速が世の中のすべてだと思ってる高校生が世界の真実に気づいて今日も日本のどこかで黒歴史と共に爆発してる。わかるよ。だからスマートフォンよくないなと思って、借りてきた小説を読むけど、本質的にはしてること同じやんけと思って、じゃあ何する? 結局またスマートフォンの中に逃げて、写真フォルダの、去年の夏に死んだ飼い猫の姿を何回も何回も見てる。かわいい。かわいい。触りたい。思い出を何回も何回も、しゃぶりつくして、しゃぶりつくしてもまだ味がなくならない。さみしい。私さみしい人だ。

痩せたいね私すごく痩せたい。でも食べたい。本気で病むと10kgとか簡単に痩せるけどリアルガチにしんどいからあれはもういい。お腹はカラッポなのに、口や喉元が食べ物を通してくれない、通行止め。ウィダーインとかしか通行許可おりない。バカだよねえ、せっかく生えそろったのにまた大量に髪の毛抜いちゃって鏡を見るたびに落ち武者みたいなオバケがうつっていてしんどい。私は抜いた髪の毛をその都度いちいち確認しているんだけど、最近は、「これ白髪かな」って思って抜いた毛が白髪である確率が高い。白髪はレアアイテムみたいな感じ。不思議なことに髪の毛抜いてると安心する。罪悪感と安心感を同時に得ている。図式は完全にドラッグといっしょかもしれん。死にたい。死にたい。こんな20代女性になるって10代の私は思い描いてなかった。

富山に帰ってきてから毎日を過ごして、お風呂は広いしちゃんとしたごはんも食べられるし家族といるのは安心できるのに、それなのに、セーブポイントがいつになっても見つからない。絶望感に苛まれている。明日は見つかるだろうか。どこにあるのかわからないままずっと歩き続けている。セーブしたい、セーブしたい、いつ倒れてもまたすぐやり直しができるように。毎分ごとにだってセーブしたいのに。それはそうと、アーティストを名乗る人で狂ったふりしてる人たちが本当に無理です。無理でした。無理だと判明しました。まっとうに生きれよ。本当に狂ってる人に失礼だよ。私も大人になったから。とりあえず金髪のヅラまたポチる。朝がくる。眠れない。窓の外すぐそこで1分おきにキジが鳴く。けーんけん。頼むから黙ってくれ

さゆ的・読書のやりかた

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さゆ的・楽しい読書ライフの作法をまとめました。

 

★どんな本を読むか

・友達、著名人、誰でもいいから誰かが薦めていた本。身近な人だと良い。少なくとも1人は面白いと言っているということなので、読んでみる価値あるぞ

・読書案内の本で紹介されてる本。上に同じ

・憧れの人が読んでる本。仮に導入部がつまらなくても「あの人が読んでるから……」ってモチベーションである程度のところまでは読める

・本屋にある「新潮文庫の100冊」みたいなパンフレットに載ってる本。新旧まんべんなく載ってるし、それらの本はとりあえず本屋で普通に買える可能性が高い

・売れてる本。売れてるのには何か理由がある

・何かしら受賞してる本。そういう先入観をもって読むことに是非はあれど、選書の目安にはなっている。ジャンルが一目でわかる賞も多い

・アンソロジーみたいな本。いろいろ読めてお得だしいっぺんにいろんな作家を知れる

 

★ここだけの話!さゆ的・良シリーズ

ポプラ社百年文庫」→国内外の文豪たちの短編アンソロジー。全部で100冊ある。タイトルはそれぞれ漢字1文字で、そのテーマに沿った作品3つが収録されてる。ササッと読める。100冊完全制覇すれば、300人の作家を読んだという計算になる!私は今20冊くらい

筑摩書房ちくまプリマー新書」→ティーン向けの新書。普通の新書は堅苦しくてどうも手が出ないので、こっちのレーベルを片っ端からテキトーに読んでる。ティーン向けということでとにかく読みやすい。世の中のいろんな事象への入り口って感じ

岩波書店岩波ジュニア新書」→これもティーン向けの新書。ちくまプリマーと並んで信頼している

イーストプレスよりみちパン!セ」→ガチで子供向けなので抵抗なく読める。このシリーズには本当にお世話になった。読んで、世界のいろんなことに興味を持てた。ほぼ全部読んでる。今も新刊をいつも楽しみにしてる

筑摩書房ちくま文学の森」→これも国内外の作家のアンソロジー

 

★読む

・しおりは何でもいいから、好きなものにするとテンションあがる。好きなアニメや漫画のトレーディングカードは捨てるか迷って結局いつも本のしおりになる

・本文に線は引かない。習慣づいてしまうと、うっかり図書館の本にやってしまいそうで怖い。それに、線を引くことを考えて本文にいちいち立ち止まっているとマジに読書が進まないタイプなのでガーーッと読む

・意味がわからない言葉や慣用句が出てきたらすぐにググる

 

★読み終えたら

・まずはアプリに記録。私は「読書メーター」を使用

・気分によって独自タグつけてTwitterに投稿

・読後も興奮がおさまらないようならブログなりメモ帳なりに思うことを殴り書き

・レビューを漁ってみる(自衛で、なんとなくアマゾンの見るのは避けてる)。どうしても気になる謎が残る部分は、ネットの海を航海して解説を探してみる

・噛みしめる

 

★その他

・行間がみっちりしてるのと、本文が二段組になってるのはなんとなく生理的に無理で読めない

・図書館めちゃ使う。タダやぞ? 図書館にある本全部タダで読み放題なんやぞ? あんまり気に入った本があればその後買えばいいし

・短編を読みたい期、長編を読みたい期、小説以外の本を読みたい期、がぐるぐると巡っている感じ

・直感的につまらないと思った本は途中で読むのをやめる。面白いつまらないというより、合う合わないの問題だと捉える。私の場合そういう直感は、たいてい当たる。時間がもったいないので、さっさと読むのをやめて次の本にいく

・でも、時間が経ってから読み返すと前回には感じなかったことがブワーッと押し寄せてくるような読書もある

・いわゆる文豪の本は、ファッションで読んでも別にいい。つまり、それを読んでる自分に酔いしれるということ。大いにアリ。見栄で読書、上等

・ただ、読んでて苦痛ならやはり時間がもったいないので読まないほうがいい。私はそういったものたちの「良さ」がわかるほど教養も人生経験もないため、あんまり読まない。もう少し大人になったらわかるかもしれない。文豪ごめん

・文豪の本は、ブックオフで入手する。文豪ごめん

・文庫本もほとんどブックオフで入手

青空文庫で読めそうなものは青空文庫で読んでみるのも良いけど、長い文章だと果てしなくスクロールしていくのが疲れるし、読みたいところからパッとひらけるのはやっぱり紙の本

・海外の小説はよっぽど興味ないと読めない

・ブックカバー集めるの楽しい。個人的には、しっかりとしたものよりペラっとした布のほうが扱いやすい。ハヤカワ文庫は、新潮文庫などよくある文庫本よりもちょっとサイズが大きいから、新潮ジャストのサイズで作られてる市販のブックカバーにはおさまってくれない。可愛い柄のA4の紙を買ってきて折ってブックカバーにもした

読書メーター便利でずっと使っています。読書メーターよりいい感じの記録アプリあったら知りたい

・こだわりがいくつかあれば、選書も楽しいし「読んでよかった」と思う本に出会う率も高くなる気がする

 

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★読書は魔法

本は持ち運べる。どこにでも連れていける。屋外でも屋内でも、電車の中でも、私だけの秘密基地でも、トイレでも。たとえば映画なんかは、そうはいかない。だけど本は持ち運べる。どこでもページを開くことができる。

本は検閲されている。しかるべき人の目を通してから、世の中に出ている。だから、ある程度は信頼できる。たとえばインターネットにかかれていることは、そうはいかない。いろんな人がいろんなことを、よくよく吟味もせずにインターネットの海に投下する。こうしてできあがる、情報の海が、インターネット。

本はどこからでも読める。しおりを挟めば、目印は簡単。早送りや巻き戻しなど煩わしい操作はない、パッとひらくだけ。

漫画も良い。だけど、あっというまに読み終わってしまうものが多いから寂しい。暇をつぶすという観点からは、漫画より活字の本のほうがコスパは良い。

人は自分ひとりぶんの人生しか体験できない。だから、映画を見たり、絵を見たり、音楽を聴いたりすることは、自分以外の誰かの人生にちょっぴりお邪魔すること。読書もそのひとつ。私たちは自分の体でしか、自分の人生しか、たった1本の道しか歩くことができないけど、読書をすることで誰かの追体験ができる。魔法学校に行けるし、自衛隊員になれるし、苦しんでいる人を救えるし、ロマンチックな恋愛ができるし、浮気も不倫もできるし、キリンになれるし、陸上部員になれるし、死んだ人に会えるし、子どもに戻れるし、逆におじいちゃんおばあちゃんにもなれるし、異性にだってなれる。「現実逃避ばっかりしとるなよ」「本ばっかり読んでると体験したこともないのに知識だけが増えて頭でっかちになるぞ」と父に言われたことがある。おおいに頷ける。それでも、幼い頃から今になってもまだ、私はこの娯楽をどうしてもやめられそうにない。

Facebookに載せない近況

音楽やってる場合じゃねーんだよ!

 

3/20に富山の実家に帰ってきて、2週間が経ちました。静かに暮らしています。

とりあえず、東京にいたときよりも格段にすこやかに生きています。東京での日々がマジにワケワカンネーくらいすこやかです。前の夏に死んじゃった猫(ちろ)が家にいないのが、まだどうしても寂しいです。

ここがどういう場所かというと。ここはとても風が強い土地です。理屈はよくわからないけど、山のほうから吹いているそうです。びゅうびゅう吹きます。ここで育ったのでもう慣れたけど、眠れない夜は本当にうるさいです。ひどい時は、勝手口のポリバケツや花のプランターを玄関に入れて、車庫の扉の鍵をしっかり閉めて、雨戸も閉めます。それと、この町は国道に沿って広がっています。国道はビュンビュン車が走っています。家から最寄りのコンビニまでは1.5キロくらい。月曜日はトボトボ歩いてジャンプを買いに行きます。家を出て、坂をのぼって、ゲートボール場を過ぎて、神社を過ぎて、国道まで出たら国道のわきの通学路を歩きます。兄のクロスバイクを借りればすぐなんだけど、昔転んでちょっと壊した前科があるから、鍵の4桁の番号を変えられてしまい簡単には貸してくれません。うちの敷地の隣の畑は、昔私をいじめていた1こ上のイノウくんの家の畑。イノウのばあちゃんが畑仕事をしているので挨拶します。ばあちゃんとバローに買い物に行けば、近所の佐藤さんのお母さんがレジにいます。佐藤さんちは弟の幼なじみがいます。ばあちゃんと佐藤さんがじいちゃんの介護などの世間話をして、レジを離れます。

療養中ではあるけど、いつまでもニートしてられません。療養というのは、少しずつ社会復帰することでもある。それに、さっさと金貯めて、東京で待ってる恋人と暮らしたい。ところで、私は自動車免許を持っていないのだけど、このへんでは、(バスや電車がないことはないけど)基本的に車がないと街のほうへは行けません。さてどんなふうにして金稼ごうかと悩んでいたところ、なんと、うちの集落で唯一といってもいい商業施設(徒歩5分で行ける。チャリなら3分)がパート募集しているではありませんか。ソッコー連絡。しかし募集を締め切られていた(こんなに悔しいのは久しぶり)。でも欠員が出そうな感じで、欠員が出たらすぐに連絡くれるそうです。欠員出ろやー。

 

あと動画サイトでアニメ見てます。けものフレンズはとても良かったです。僕のヒーローアカデミアも毎週土曜の放送が楽しみ。今は動画サイトで機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズを少しずつ見ています。ガンダムみるの初めてなんだけど、なかなかおもしろいです。人がバンバン死んでいく世界観の物語に触れるのが久しぶりだから、少しへこむけど。あと、とにかく、スケールがでかいね。火星とか地球とか。勝手だけど、ガンダムって「男子のもの」だと思ってたけど、そんなことないんだなと思いました。

 

本も読んでいます。図書館行って借りて読みます。つくづく、やっぱり図書館という場所が好きだなあ〜と思います。地元にも図書館があって、そこは小さい頃から何回も何回も通ってるところだけど、資料検索などしてみる中で、今の私が読みたい本があんまり置いてないということが判明しました。ガーン。それで今日、去年?に改装されて新しくなった市立図書館の本館に初めて行きました。富山の、市街地のほうにあります。

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広かった。無駄に広かった。キレイすぎて引いた。天井高くてくらくらした。最後に来たのが、もちろん改装前で、高3とかの時だから、本当に久しぶりでした。広さに対して開架資料はそんなに多くないけど、そのぶん通路や閲覧席にゆとりがあるつくりになっていました。明るいし。カフェとか併設されてるし。あと児童書がめちゃ充実してたから、子どもの頃にここ来たかったなと思いました。そうでなくてもここ数年ヤングアダルトばっか読んでるから、この充実度はたしかなまんぞく。近所にあったら毎日でも通う建物。

図書は2週間、10冊まで借りられるので、10冊マックス借りてきました。あらかじめ探し物のリストアップしてからいったけど、人気の本とか話題の本ってやっぱり貸出中とか予約中が多いね。市内でいちばん大きくてキレイな図書館イコール利用者数多い し、よく考えたら当然だった。それでも棚をダラダラ見てたら「あ〜これも読みたかったやつだ〜」って本が次々に見つかったので借りました。この、ダラダラと棚を見てる時間が死ぬほど幸せなんだ……この本たち全部タダやぞ…タダで読めるんやぞ……。

村田先生

小学校の1、2、3年生のとき、担任は村田先生という先生だった。(当時は)若い、女の先生。年齢は、最後まで教えてくれなかった。干支ならどうかと思って「先生、何どし?」と聞いたけどもちろんダメだった。とても明るくて朗らかな先生だった。生徒のことは苗字にさんづけで呼んでいた。でも私の苗字はクラスに2人いたので、私と、私と同じ苗字を持つ男子は苗字でなく「サユリさん」「ハルキさん」と名前で呼ばれていた。

その頃の私は人前で話すことがとにかく苦手で、緊張するとすぐに涙ぐんでしまう癖があった。日直の生徒が絶対にしなければならない朝のスピーチや、授業中の発表など、いつもいつも苦痛だった。人前でも友達と話すように喋れるお調子者のクラスの男子が心から羨ましかった。ちなみにこの癖はなかなか直らず、結局中学生になっても目上の人と話すときは涙目になっていた気がする。職員室ではいつも緊張していた。

小学校3年生のとき、国語の授業で「おてがみ」という単元があった。元々は絵本になっている物語で、親友同士のカエルが手紙をやりとりするという内容だったと思う。その中で、片方のカエルが友達の「かたつむりくん」に手紙を託す。そこに関して、「直接ポストに入れればいいのに、なぜわざわざかたつむりくんに手紙を託したのか?」を授業で考える回があった。みんなが口々に意見をいう中、村田先生に「サユリさんはどう?」と当てられた私は、立ち上がり、恐々と、「かたつむりくんに手紙を託したのは、(かたつむりくんは歩くのが遅いから)お手紙が届くまでの秘密の時間が長いからじゃないかなあ」と震えながら自分の考えを答えた。クラス中から「えー」「そうかなー」などの声があがり、私はすぐに涙目になった。何も言わなきゃ良かったと思った。そこでチャイムが鳴って授業は終わった。それは4限のことだったので、次は給食の時間だ。

給食の準備をしている間、村田先生は連絡帳に何か連絡ごとのあった生徒を呼び出して個人的に話をしていた。その中で、私も先生に呼び出された。何かあったのかなと思いながら先生のところへ行くと、先生は「前の国語のとき、どうして泣いていたの?」と言った。私はそれを問われたことでまた緊張して涙目になってしまった。心の中の触っちゃいけないところに踏み込まれたと思った。ごめんなさいとも思った。何も答えずに黙り込んでいると、先生は「授業中、当てられるの嫌だった?」と言った。うまく何も答えられなかったので、とりあえず頷いた。

すると先生は「サユリさん、ちょっと来てくれる?」と、私の手をひいて、給食準備をする教室から抜け出した。どこに行くんだろう、何をされるんだろうとドキドキしながらついていくと、教室から少し離れた調理室に入った。

先生は、突然私を抱きしめて、「ごめんね、嫌な思いさせてごめんねえ」と言いながら泣き出した。びっくりしたし混乱した。大人が泣く姿を見ることなんて滅多になかったからだ。しかもそれが自分の担任の先生で、泣いているのはおそらく自分のせいだ。私はとにかく気が動転して何も言えず、泣く先生を前に自分まで涙目になっていた。

 

村田先生。覚えていますか。国語の時間に私が泣きそうになってたは先生のせいではないんだよ。泣いてた先生は何も悪くない。人前で話すのが苦手な私が悪いんだ。今は人前で歌まで歌えるようになったよ。20年弱経った今でもあの日のことが忘れられません。先生、本当にごめんなさい。

音楽の時間

三鷹にある「おんがくのじかん」という場所でライブをしてきた。

名前はよく耳にしていたが、初めて訪れた。地下に続く階段をおりて、恐る恐るドアを開けると、そこに「おんがくのじかん」はあった。こぢんまりとした空間で、小さなステージがある。ステージには「おんがくのじかん7周年」と丁寧にラクガキされた黒板。奥にはバーカウンター。

そして特に印象的だったのが、たくさんのCDと、とりわけたくさんの本だった。

何ヶ所かに本棚があり、そこにはみっちりと本が並んでいる。そのほかにも、バーカウンターにも背の低い文庫本たちがみっちりと並んでいた。その中に、私の好きな「古川日出男」という作家の掌編集「gift」のハードカバーがあったので(私は文庫本で読んでいたから気になって)手に取ると、便箋が1枚挟まれていた。見てはいけないと思いつつ短い文章なので読んでしまった。どうやらここの店主の菊池さんに宛てたもののようだ。どうしても気になったので、店主さんに「以前に出版などのお仕事をされていたのですか」と尋ねると、どうやら古川さんとお知り合いらしく、giftに挟まっていたのは担当編集者さんからの便箋だったらしい。古川さんの本は何冊か読んだので、「私も好きなんです」と少しお話した。その他に棚にあった本で気になるものがあったのでいくつか尋ねた。ボルヘスの伝奇集は「もろ古川さんの影響です」と笑って教えてくださった。

「ここによく出入りしている人には本の貸出もしているんです。作業が追いついてない本もあるけど、うしろに貸出カードが貼ってありますよ」とのことだった。許可をもらって、気になった本を数冊手にとってみたが、なるほど確かに背表紙をめくるとのり付けされた封筒から貸出カードがちょこんと顔を出していた。

まるでちっちゃい図書館みたいで、素敵だった!将来私も自分の本に蔵書票をつけて貸出とかしてみたいな、などと思った。

図書館は朝を待つ

一昨年の春から、図書館でアルバイトをしている。自分の所属する大学の学内にある図書館だ。

 

それは東京都心から少し離れた場所にある平和な教育大学だ。学生は、よく言えば真面目(悪く言えばダサい)。図書館の利用者は大半がうちの学生、教員、職員。あと、制限はあるけど一般市民も少し利用することができる。蔵書は教育関係のものが多い。教科書、指導書も豊富にある。当然それらの貸出が多い。

この大学は、基本的に教育を志す者、とりわけ教員志望が集まる。学類を大きくわけると、初等教育専門のA類、中等教育専門のB類、特別支援(盲学校や聾学校など)専門のC類、養護教諭(保健室の先生)専門のD類、あとはそれ以外(ちなみに私は1ミリも教育を志していないままここに来たのでこの「それ以外」に該当する)。勤務していて思うけど、資料の貸出は比較的にABCD類の学生が多い。「それ以外」が不真面目というわけではないけど、彼ら学生の真面目さにはいつも感心する。「なかなか見つからないこの論文をどうしても見たい」と食い下がる学生もたくさんいる。テストやレポートの多い学期末は特に忙しい。

 私たちの仕事は、主にカウンターでの貸出と返却の処理だ。他に、返却された資料の配架、地下書庫の資料の出納、見つからない資料の捜索などもある。1年目は、職員さんのいない土日にレファレンス(調査支援。調べ物の調べ方を導いたり使える資料を案内したりする)も少しやった。1度に入るバイトは3人。主に3人で、夜間の図書館を守る。時には職員さんたちは先に帰ってしまうので、鍵を閉めて守衛さんのところへ鍵を返す。

返却資料の配架は1人ずつ、1時間交代で行く。順番に、元あった場所に本を戻す。絵本、児童図書。展示コーナーの資料。文庫、新書、全集・叢書。普通の書架に並べられない、画集などの大型図書。0類、総記。1類、哲学、心理学。心理学の本がやたらに多いので少し面倒。2類、歴史。3類、社会科学。教育は370で、特に375は指導に関するものだからこのあたりの配架がいちばん大変。多分「ごんぎつね」の授業に関する本だけでも10冊くらいある。4類、自然科学。数学も化学も物理学もここ。理系の分野の利用者は男子学生が多いせいか、4類の棚はグチャグチャになっていることが結構あるからあんまり配架したくない。5類技術・工学、6類産業。このあたりのうちの蔵書はめちゃくちゃ少ない。7類、芸術スポーツ。舞踊に始まり美術、音楽、演劇、映画、スポーツ。8類、言語。TOEICのテキストなんかもここ。9類、文学。これは楽しい。本棚の隅まで、本当にたくさんのタイトルが並んでいる。この本ずいぶん古いけど最後に読まれたのいつなんだろう、とか、普通に生きてたらこんな本絶対に手に取ることはないんだろうな、そんなふうに思いながら書架整理をする。

地下には書庫がある。電動で開閉する棚が無機質に並んでいる。開架よりもっとたくさんの本たちが、ギュッと棚に詰まって静かに待っている。もちろん古い本もたくさんある。大正、昭和に使われていた教科書。私たちなんかには絶対さわれない貴重書。いったい、いつ誰が何のために書いた本なのか。だけどすべての本には生みの親がいて、きっといつかそれを手に取る人のために、その本を必要とする人のために、たくさんの背表紙が、ここで誰かの人さし指をいつまでもいつまでも待っている。すべての本には生みの親と歴史がある。地下書庫には、そういう無数の本が待っている。今日も明日も。

 

昔から図書館が大好きだった。地元の町は通っていた小学校のすぐそばに図書館があった。図書館の2階には児童館があった。図書館では、たくさんの本を借りて読んだ。絵本にも児童書にも飽きたら、性描写もろくに理解していない幼さで大人の小説を読んでいた。読みたいのに図書館にない本はリクエストして購入してもらったり、県立の大きな図書館から取り寄せてもらったり。司書という職業名すら知らない頃からずっと、カウンターの向こう側にいる大人に憧れていたので、図書館でのアルバイトは小さな夢のひとつを叶えることだった。

 

この図書館で働いて自分が意外だったのは、生まれ変わったら学校の先生になろうと思ったことだった。留年と休学を経ていた私には、働き始めた頃から同い年の同僚はいなかった。そのことに、チクリと胸が痛んだ。利用者の学生の「この本探してるんですけど」「この論文が読みたいんですけど」のひとつひとつに接するたびにも、どこか胸が痛くなった。X軸とY軸の座標の上で一生懸命に戦っている人たちを、私だけ遠く別次元のZ軸から見ているような気分だった。それで、生まれ変わったらまたここの大学に来て、ちゃんと教育実習にも行って、つらい思いもして、苦しんで、そのうえで、国語の先生になってみたいと思う。司書の資格もとって、司書教諭になろう。漠然とそう思う。具体的な理由はよくわからない。でもそのくらい、利用者の学生たち、教育を志す若者たちは、みんな眩しかった。そして、図書館で働けたのはとても尊い体験だった。たった2年働いただけだけど、地域の図書館ではなく大学の図書館で働くというのがどういうことなのか、入口くらいはわかった気がする。

 

一昨年の春から、図書館でアルバイトをしている。明日の勤務で、任期は終わる。

弱いまま開かれた世界へ

8年通った大学を3月で退学する。そのうち2年間は休学していたから実質通ったのは6年だが。

 

「大卒」の二文字が強いのは知っていた。強いっていうのは、就職とかにおいてだ。だから大学を卒業したかった。「大卒」という勲章が欲しかった。入学したからには卒業したかった。「時間かかってでも卒業しなよ」と言ってくれる人もたくさんいた。それに、私にとって「大卒」は、がんばったという印でもあった。高卒や中卒でもめちゃくちゃにカッコよく生きている人はたくさん知っているから、決して大卒をもてはやしているわけではない。それでも、私がこれから生きていくうえで、今どうしても乗り越えたい壁だった。がんばって受験して合格できた18歳の自分に顔向けできない。

授業に行こうにも、体はいうことをきかない。家を出られない。秋冬を迎えてそれほますます悪化した。生きることで精いっぱいだった。

卒業したかった。確かに、卒業したいと思っていた。私もちゃんとがんばれるんだよと私自身に証明してあげたかった。だけどもうがんばるのに疲れてしまった。8年かかって、さすがに笑っちゃうくらい疲れてしまった。自分が大嫌いになって、落ち込んで、とうとう大好きだった音楽も楽しくなくなるくらい疲れてしまった。それに、「大卒」という勲章にもさほど魅力を感じなくなっていた。視野を広げたら、なんであんなにこだわってがんばってたのかもよくわからなくなってしまった。思うようにいかず、つらくて、苦しんで苦しんだ8年の体験を通して、もう「大卒」以上の大きな何かを得たような気がしていた。

大学1年生の18歳だった私は26歳になった。

大学で学んだ大きなことは、「私は大学生に向いていなかった」という事実だった。

 

卒業のために協力してくれた人たちに頭を下げて、大きな挫折と敗北を喫して、上京から8年住んだ部屋を3月に引き払って4月から富山に帰る。もう、お腹いっぱいになった。東京の街も、東京の人も、みんな眩しかった。いい加減、おとなになる時間だ。私の好きな漫画に「まわり道にはまわり道にしか咲いてない花がある」というセリフがある。ハンパじゃないルートのまわり道を歩いたら、確かにそんな花はたくさん咲いていたように思う。たぶん、普通の道には咲いてない花が。きれいじゃなくても、尊い、たくさんの花が。宇宙から見たら私なんてちっぽけでどうでもいいサイズの存在だけど、それでも死なない限りはちゃんと生きていかなきゃいけない。普通未満でも、平均点いかなくても。たぶんもうドアはひらいている。さあ足枷にさよなら、振り向くことなかれ。まわり道に咲いていた花をしっかり目に焼きつけて、弱くとも、私は歩いていかなけらばならない。