無限ワンアップ・改

さゆゆのメモ箱

風が吹いたら桶屋が儲かるゲーム

「風が吹いたら桶屋が儲かるゲーム」という遊びがある。かなり前のドライブ中に友人から聞いて知った。よっぽど暇だったのかもしれない。とてもシンプルかつ、(悪くいえば)くだらない遊びだ。

遊び方は簡単。使うものは何もない。

1、「何をしたら(スタート地点)」「どうなる(ゴール地点)」を決める。例)「雨が降ると」「叶姉妹のブログが炎上する」

2、「何をしたら」から順番に連想していき、「どうなる」にたどり着く。例)雨が降るとみんなが傘をさす → みんなが傘をさすと道がせまくなる → 道がせまくなると…… → (中略)……になると叶姉妹のブログが炎上する(ゴール!)

ダラダラ長く続けることを目的に楽しんでもいいし、いかに早くゴールにたどり着くかを楽しんでもいい。ナイスな繋ぎをしてくれた人をあえて無視したりするのも楽しい。ちなみに主述の関係とかもめっちゃテキトーでいい。いつのまにか主語が変わってても別にいい。流れでそうなったらそれでいい。細かいことは気にしない。

ちなみに「風が吹けば桶屋が儲かる」の詳しくはこう↓

“風が吹けば砂埃のために目を病む人が多くなり、目を病んだせいで失明すれば音曲で生計を立てようとするから三味線を習う人が増え、三味線の胴に張る猫の皮の需要が増える。 そのため、猫の数が減少し、猫が減れば猫が捕まえる鼠の数が増える。 鼠は桶をかじるから桶がよく売れるようになり、桶屋が儲かることから。” いわゆるバタフライエフェクトである。

 

数年前、大学の部活の仲間数名が集まって、ある先輩の家で飲み会をしていた。そこでUNOだかトランプだかをしていて、早々にあがって暇になった私は、同じく早くあがって暇そうに携帯をいじっていた後輩の白取くんに「風桶ゲーム」をしようと持ちかけた。「ねーねー【風が吹いたら桶屋が儲かるゲーム】しよー」『え、何ですかそれ』私はゲームの説明をした。『それって…楽しいんですか?』「いいからやってみようよ」

そして、スタートとゴールは「海が荒れると」「君に会いに行ける」に設定された(ゴールがロマンチック)。

「私からね。海が荒れると、漁師が仕事をなくす」『漁師が仕事をなくすと、漁師が仕事を探す』「(普通やんけ…)漁師が仕事を探すと、求人誌を見る」『求人誌を見ると、応募の電話をかけたくなる』「応募の電話をかけたくなると、電話ボックスに行く」『電話ボックス? え~……最終的に君に会いに行ければいいんですよね。……うーん…どうしよう…』

そこで、横でニヤニヤしながら聞いていた別の後輩・カイルくんが叫んだ。

 

「白取さん! そこは『電話ボックスに行くと、君の乗る飛行機がまだ空港にいることを知る』ですよ! これで君に会いに行けますよ!!」

 

コイツは天才か、と思った。

大量の水を眺める

25日(火)。眼科でコンタクトをもらってから心療内科に行くという予定が、眼科が休診日だった。せっかくトヤマ駅まで出たのに、悲しい。眼科休診により、心療内科の時間まで馬鹿デカい暇が発生してしまった。せっかくなので、駅裏の某公園に散歩してきた。そこには「世界一景観のいいスタバ」(確かそのはず)があって、そこでナンチャラフラペチーノやらを買うこともできたが、自販機で17アイスを買う。気温が高いのであっという間に溶ける。行き交う人々をボケーッと眺める。みんな、ピクニックや犬の散歩などなど。周囲の目を気にしつつも芝生に寝そべってみると、雲ひとつない青空。そして「私……めちゃ無職だ……」と思った。

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高校生の時、トヤマ駅を毎日使っていた。あの頃トヤマ駅周辺は私の庭だった。お金を使わずに長時間過ごせる場所、自習に最適な場所、電車のダイヤ、乗り換えには何分かかるか、プリクラを撮るならどこか、すべてが頭に入っていた。それから時は経ち、北陸新幹線の開通などがあり駅周辺は大きく姿を変えた。ちょっとさみしい気もするが、便利になったところもたくさんある。たとえば駅南の図書館。

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10年ぶりに訪れたところ、大量の漫画が。10年前にはなかった「こども図書館」が併設されており、そこにはたくさんの児童書! 漫画は館内閲覧のみだけど、人気作はだいたい網羅してある。こども図書館は18時閉館だけど、いくらでも時間潰せるやんけ(普通のほうの図書館は21時まで。すごい)。利用します。

 

26日(水)。文化放送の番組に生出演するために東京へ。夜行バスで朝到着し、池袋のマックで読書して時間潰すつもりが寝てしまう。その後おかありな・岬たん両氏と合流し、文化放送に直結のデニーズで近況報告など。岬たんから沖縄のおみやげ(ちんすこう)を頂く。

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いざ文化放送へ。受付で名乗ると当該フロアまで案内される。番組のスタッフの方に挨拶し、台本を受け取り、おおまかな流れを聞く。「放送禁止用語とかはあんまり気にしなくていいので、自由に楽しく喋っていただければと」とのこと。そして大竹まことさんに挨拶。ドキドキしたけど、岬もありなもいつも通りヘラヘラしていたので私もヘラヘラする。ブースに入って少し雑談、のままヌルッと本番へ。放送は、緊張したものの終始和やかに進み、無事終了。

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文化放送を後にした我々は、「酒が飲みたい」という話になり(15時)、安く飲める日高屋を探すも、オフィス街である浜松町に日高屋など存在しないことが判明する。結局コンビニで酒を買い、近くにあった寺のような場所で飲む。岬たんいわく、外国では路上で酒を飲むのは「ありえない」ことらしく、花見とか路上飲みとかできるウチらって日本に生まれてホント幸せだよね〜……という話をした。

 

27日(木)。恋人とデート。行く場所も決めていなかったので、私が夜行バスに乗る新宿にとりあえず行くことに。新宿御苑に行ってみようという話になるも、16月で閉まる(相談時15:30)ため断念。代わりに、初めて都庁にのぼってきた。

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タダでのぼれるの知らなかった。都庁。

ごはんも食べて、それでもまだバスまで時間があるので、本屋に行ったりゲーセンに行ったりなど。

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大量発生するロコン(アローラのすがた)とピカチュウ

本屋のついでにアニメイトに行ったら、最近のラノベのタイトルは迷走しているということがわかった。

 

29日(日)。家の近くを時間をかけて散歩した。

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家から歩いていける距離にダムがあって、そのそばには小さな休憩スペースがあって、そこでダムを眺めながらボケーッとするのが昔から好きだった。家から歩いていける距離に大きな川もあるけどそのは流れが速い(上流のほうだし)から、ただ大量の水がそこにあるだけという状態のダムを眺めるのが好きだった。ダムというものは放流時はそれはそれは迫力のあるもので、だけどそうでない時はヌボーーッとしている印象がある。私は寝巻きで、メガネで、髪の毛もボサボサで、ダムを眺めながら、音楽を聴いて、そして私もまた、同じようにヌボーーッとしている。

舞台の上は戦場

某年3月。私はダメ元で受験した東京の国立大学に見事合格した。東京に憧れてはいたが、東京でさらに私立大学となると学費の問題で4年間通わせることは難しいと両親に言われていた。しかし国立大学に合格できた。これで学費の問題はクリアできた。いざ憧れの東京。これから東京で大学生。上京、ひとり暮らし、勉強にバイトに恋愛に、そして大好きな音楽。まずは軽音サークルに入ってバンドを組むんだ。ウェーイってやるんだ。バンドを組んで。軽音サークルで!希望に胸をときめかせた私は、そんなチャラくて楽しいキャンパスライフを送ることとなる。

はずだった。

 

翌、4月。私は頭を抱えていた。受験して入学したのは芸術系の専攻だった。そこにはたくさんの「強そうな人」が集っていた。専攻のオリエンテーションで、皆が順番に自己紹介をする。

コンテンポラリーダンスをやっています」(コン…?何ダンス?)

「演劇部でした」(マジかよ、演劇部とか富山県に全然ない文化だぞ)

「ミュージカルが好きです」(ミュージカル!?私そんなん観たこともないぞ)

「声楽をやってました」(私コーユーブンゲン止まりなんだけど!)

「作詞作曲できます」(マジかよ!早くも音楽家あらわる!)

暗黒舞踏してました」(暗黒!?何それ怖い)

私は今まで何をしていただろう。まさか東京に出てくるための口実でイケそうな国立大学テキトーに受験して偶然受かりましたなんて言えるわけがない。何も言えない。自己紹介で何を言ったかは覚えていないが、いい加減なことをへらへら喋ってやり過ごしたような気がする。

そこは「表現コミュニケーション」という、芸術全般について学ぶ専攻だった。しかし芸術全般と言いつつ、実際来てみると、かなり演劇に傾倒しているという印象だった(たぶん学生によって感じ方は違うが私はそう感じた)。全員がそうだったというわけではないが、ミュージカルや演劇やオペラなどなど、やはり舞台芸術愛する人が多いのは確かだった。1学年20人程度の小さな専攻だが、同期と変わらず先輩たちも舞台芸術愛する人が多かったように思う。専攻のオリエンテーションでは先輩たちも自己紹介をしていたが、所属団体を宣伝する方も少なくなかった。そして季節柄、先輩たちはサークルの新入生歓迎イベントの告知をしていた。その中で、うちの専攻内で、所属している先輩が圧倒的に多い演劇サークルがあるようだった。複数の先輩から、そのサークルの新入生歓迎公演に誘われた。公演あるから、私演出やってるから、私役者やってるから、私舞台美術やってるから、観にきてよ、と。稽古の見学にまで誘われたので誘われるままについていき、木材を加工して舞台美術を作ったり、台本を読ませてもらったりなどの体験をした。訛りを指摘されて死ぬほど恥ずかしい思いもしたが楽しみながら読んだその台本は新入生歓迎公演のもので、それはいびつな家族の温かい物語だった。ちなみにその時の私は「先輩にごはん奢ってもらえるし、知ってる人も多いから不安もないしいいや。しつこく勧誘されても断る自信あるし」くらいの気持ちだった。

その新入生歓迎公演の本番の日、私はその受付にいた。「やってみなよ!ぜひおいでよ!」と私を引っぱってきた、役者で出演する先輩のゴリ押しにより制作の手伝いをする流れになってしまったのだ。衣装とメイクを纏い、役の姿になった先輩は、私の前にきて「さゆりちゃん、手伝ってくれてありがとう。難しいことはないから、楽しんでね」と笑って、また楽屋に去っていった。こんなはずじゃなかったんだけど……と思いながら、パンフレットを来場者に渡す。来場するお客さんを迎えるのは悪い気分ではなかった。演劇ってこういう仕事もあるのか〜と実感し始めた頃、制作の指揮をとっている先輩が「本番始まるから、中入って観てきていいよ」と私を会場内に入れてくれた。それなりに人は入っていた。演劇を観るのなんて、小中学校の芸術鑑賞会で町のホールに行った以来だ。私なんかにわかる内容なんだろうか。

会場内のBGMが次第に大きくなる。あ、始まる。照明が少しずつ暗くなる。BGMがフェードアウトする。

暗転。

その物語は、暗転状態の中誕生日を祝う歌声から始まる。「ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー♪」

そして明転して舞台上の役者たちが目の前にあらわれた瞬間、今までに体験したことのない感動に襲われた。なんで?どうして?どうしてこんなに心が震えるんだ?さっきまで「楽しんでね」と話していた先輩が、今まったく別の人物になっている。まったく別の人物になって、笑って怒って喋っている。まったく別の人物になって、生きている。そうやって舞台の上で他の人とコミュニケーションを成り立たせている。先輩以外の役者さんたちもまた、自分以外の人物になって、笑って怒って喋っている。先輩や、稽古場で会っていた人たちは、幻だったのだろうか?違う。今ここで、彼らはひとつの世界を作り出している。私はそれを観ている。私たち人間は、自分自身の人生しか、自分ひとりぶんの人生しか生きられないと思っていた。その思い込みが、いとも簡単にあっさりと覆されたのだ。演じるってどういうことなんだろう?世界を作り出すってどういう仕組みなんだろう?私は演劇なんて知らなかった。本当に、これっぽっちも知らなかった。だけど、ここまで心が震えたこの体験は嘘でも見栄でもなかった。

終演後ボロボロ泣く私を、先輩たちは「そこまでとは、嬉しいなあ」と言いながらも宥めてくれた。

 

軽音サークルに入って、チャラくて楽しいキャンパスライフを送るはずだった私の未来予想図は、ここから狂い始めた。

 

つづく

桃色の恋・最強の恋

見るものすべて桃色にフィルターがかかるようなバカな恋を、24歳でようやく卒業できた。遅い。遅すぎる。ずいぶん長い間、バカな女だった。そしてバカな処女だった。どうしてもこのひとが欲しくて欲しくて、自分のものにしたくて、この人じゃなきゃ嫌だった。自分がどれだけ想いを寄せても、どうしても応じてくれないという、そういう人間関係がごく身近に存在するということを痛いほど知った。「ごめん、さゆりの気持ちには、こたえられない」。そう言われて、半年後にもう一度気持ちを伝えた。もちろん返事は同じだった。今思えばとても迷惑だっただろう。恋していたその相手はとてもやさしい人だった。だから心のどこかで、この人はいつか私の気持ちに応えてくれるのではないかと思っていたのだ。甘かった。脳内がお花畑だった。私たちは大人だから、カラダだけの関係とかキープとかそういうルートもありえたかもしれないが、自分に好意を寄せてくる女をもてあそんだりせず真摯に返事をくれたその人のことは今も尊敬している。それか、私ごときなんか、もてあそぶに値しなかったのかもしれない。とにかく、私が想いを寄せる相手が私にも想いを寄せてくれるというそのことが、どんなに有り難い奇跡なのか、24歳でようやく思い知った。ろくに恋愛を経験しておらず何も知らない私は、とんでもなく愚かだったのだ。

 

現在交際3年目の恋人は、もともとは友人だった。

とても良い友人だった。歳をとってお互い中年になっても会って酒を飲みたいと思っていた。桃色のフィルターのかかっていたバカな恋が少しずつ薄れていく頃、ふと、彼に女がいる想像をしてみたら、とてもモヤモヤした。そして悲しくなった。その夜、もみじという友人と会って吉祥寺の安いファミレスでパスタをすすっていた。その話をすると、もみじはニヤニヤしながら「さゆりちゃん、それはね…、恋だよ」と言った。その言葉を聞いて、ああこれは恋なのかなぁ?と思った。そしたら、じゃあ言わなきゃと思った。好きだと。食べかけのパスタをそのままに、「ちょっと今から電話して言ってくるわ」とファミレスを出た。背中にもみじの「がんばれー」がきこえた。まずLINEで「ちょっと電話したいんだけど今大丈夫?」と送信すると、大丈夫だとすぐに返信がきた。電話をかける。ダメ元で「あの、落ち着いて聞いてほしいんだけど、私の彼氏になってくれん?」と伝えてみた。電話なら、もし断られても顔を見なくて済むし、その後もなるべく顔をあわせないように過ごしていればいい。これから友人に会いに行くのに今横断歩道を渡っているよという電話口の彼は、めちゃめちゃ動揺していた。落ち着いて聞いてほしいと言ったけど、彼は1ミリも落ち着いてなどいなかった。そんな彼の反応に私も動揺した。てっきり冗談で流されてしまうと思っていたからだ。その数時間後、友人と別れた彼から電話がかかってきて、私たちはこれから男女交際をするという契約を交わした。

そんなことがあり3年目。交際開始当時、料理がんばるぞと意気込んでいた私の現在の料理はいっこうに上達せず、食卓に並ぶのはワンパターンなものばかり。何を出してもおいしいと言って食べてくれるけど。そういえば、彼に対してドキドキする気持ちも、燃えあがるような気持ちも、今は正直あんまり感じない。今までいちばん胸がドキドキしたのは初めて手を繋いだときだった。「並んで桜を見ながら歩くのは友達でもできることだけど…だから…お互い手あいてるけど……コイツ今何考えてるんだろう……」しびれを切らした私が彼の左手を掴んだ。お互いびっくりして黙り込んでしまった。こんなにドキドキしたことはそれ以来ない。また特殊な種類のドキドキではあるが。それでも、ふとしたときに、彼の後ろ姿を(ドキドキこそしないけど)愛おしいと思う。犬や猫の画像や映像を見たときにわきあがる気持ちが、ふと彼に対してもわきあがる。犬や猫と違って彼の外見は決してかわいいようなものではない。それでも、ふと手をつないでいたいと思う。どこまでも続く漠然とした安心、やすらぎ、憎まれ口、生活感、めんどくささ、脱ぎっぱなしの靴下、食べかけのまま半年放置されてるミンティア、浴槽の赤い水垢、ごつごつしたソファベッド。剃ってないヒゲのジョリジョリ。カラッポになりかけのシャンプー。溜まって積み上げられてきたジャンプ。不安、安定感と温かさ。今は同棲を目標にお金を貯めている。一緒に暮らすともっとたくさんの楽しいとかムカつくとかおいしいとかウケる〜とかが毎日毎日増えるのかな。楽しくてもドン底でも、おそろいの景色が、おそろいの記憶が、今もまだ増え続けている。そのことが本当にうれしいし、幸せに思う。きっとこれは桃色の恋ではない。見るものすべてにピンクのフィルターがかかってしまうような恋、かつて私に降り注いだ。今はもう違う。生活感だらけで、足がくさくて、甘いセリフなんかひとつもなくて、セックスだってしていない。だけど、これは絶対に。最強の恋だ。

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たぶん

世界と繋がるためのラジオ

いちばん古くは、KNBラジオ。母が車で聴いていた。KNBというのは北日本放送のことで、日本テレビ系列の富山県の放送局。KNBラジオはAMだった。小学校5年生〜中学生まではKNBラジオばかり聴いていた。お気に入りの番組もあった。もちろん富山県でしか放送されてないから、たまにきこえる富山弁がなんだかおかしかった。午後の番組、パーソナリティーの相本さんたちに毎日会えるのが楽しかった。番組ホームページのメールフォームからメッセージを送って、番組内で読まれたときは本当に嬉しかった。リクエストした曲を流してもらえたときも。自分は世界と繋がったんだと思った。確か最初のラジオネームは、「小学6年生」。たとえ富山県のローカル放送でも、小学6年生のメッセージはリスナーたちの耳に届いたのだ。そのことが、飛び跳ねるくらい嬉しかった。

高校生になってからは、FMとやま。はじめは、AMラジオより澄んだきれいな音がなんとなく気にいらなかった。それでも、音楽の番組が多くて、聴いていて楽しかった。夕方の番組にはまたメッセージとリクエストを送った。お米をといだりお茶をわかしたりしながら、自分のメッセージが読まれるかいつもワクワクして聴いていた。

NHK-FMには、「ミュージック・スクエア」という番組があった。今はもう、だいぶ前に終了してしまった。リリース前の曲をフルで流していたから、それを、せーのでボタンを押してMDに録音して、いらないトークの部分は切って削除して、何曲もコレクションしていた。そして何度も何度も聴いた。「ミュージックスクエア」というタイトルのMDは、順に番号をふって、結局25枚くらいにまで及んだ。ミュージック・スクエアには、新曲を流すコーナー、ゲストのコーナーの他に、リスナーからのリクエストを流すコーナーがあった。それは時間の都合なのか毎日1曲だけだった。NHKなんて日本中の人が聴いてるんだし、きっと私のメッセージなんて読まれないだろうなと思いながらも、そのコーナーにメッセージとリクエストを送ったら、奇跡的に読まれたことがあった。ちなみにTHE BACK HORNの「夢の花」という曲だった。今も大好きな曲だ。私はラジオの前でじっと体をこわばらせたまま、NHKという日本で最大手のラジオ局にて、私のわがままで私の好きな曲が流れていることに心から感激した。私が発信したものが、ラジオを介して、日本中の人たちに届いていて、少なくともこの曲が流れている間は、発信した私と受信する人たちの回線は確実に繋がっている。そして、どこかの誰かがこの曲を偶然きいて、仮に、好きになってくれたら、それは奇跡みたいなことなんだと思った。私たちリスナーは、お互いの姿が見えなくても、ラジオの電波に乗って出会い繋がることができるのだ。

そしてその頃、私が高校生のとき、あるラジオ番組(全国ネット)と某出版社(めちゃデカい)がコラボした文学賞の企画があった。軽いノリで応募したら最終ノミネートまで残ってしまった。最終ノミネートは私含め6人いたのだけど、全員がその番組に何回か電話で出演した。私にも、ラジオ局から携帯に電話がかかってきて、番組スタッフさんから何点か話す際の注意を受けて、出演した。電話で喋るのと放送とでは時差があるため、ラジオから離れて、ラジオがきこえないように、携帯を片手に洗面所にひとりでこもって、出番をドキドキ待った。そして訛りのことばかり気にしながら、パーソナリティーさんたちと話した。番組ホームページの掲示板には、私の出演やノミネート作品の感想がたくさん書き込まれた。日本のいろんなところの人たちが書き込んでいた。そのときまた、「私は『これ』で世界と繋がっている」と思った。これまでとは違う、確かな強さをもった糸で。

 

水曜日に、東京は浜松町の文化放送に行って、生出演してくる。何年かぶりに私はまた世界と繋がれるのかもしれないと思うと、その瞬間がとても楽しみです。ちなみにラジオのパーソナリティーは、昔からの夢というか憧れです。

セーブしたい

あの子、たくさんのいいねに埋もれてきっとそう遠くない未来死んでしまうんだろうなと思った。不特定多数の好意、善意、そして悪意、たくさんの矢印があの子に向いている。でも早めに死んだほうが幸せなのかもしれない。あの人の本気は噂より大したことなくてガッカリした。ここ片田舎の集落に住みながら世界と繋がるにはインターネットしかなくて、ずっとスマートフォンの中で生きていけたら楽しいのかもしれないけど、そんなの絶対絶対不健康だしおかしいぞって、心の中の老害が叫んでる。私もそうだと考えてる。インスタと顔本とツイッターとハム速が世の中のすべてだと思ってる高校生が世界の真実に気づいて今日も日本のどこかで黒歴史と共に爆発してる。わかるよ。だからスマートフォンよくないなと思って、借りてきた小説を読むけど、本質的にはしてること同じやんけと思って、じゃあ何する? 結局またスマートフォンの中に逃げて、写真フォルダの、去年の夏に死んだ飼い猫の姿を何回も何回も見てる。かわいい。かわいい。触りたい。思い出を何回も何回も、しゃぶりつくして、しゃぶりつくしてもまだ味がなくならない。さみしい。私さみしい人だ。

痩せたいね私すごく痩せたい。でも食べたい。本気で病むと10kgとか簡単に痩せるけどリアルガチにしんどいからあれはもういい。お腹はカラッポなのに、口や喉元が食べ物を通してくれない、通行止め。ウィダーインとかしか通行許可おりない。バカだよねえ、せっかく生えそろったのにまた大量に髪の毛抜いちゃって鏡を見るたびに落ち武者みたいなオバケがうつっていてしんどい。私は抜いた髪の毛をその都度いちいち確認しているんだけど、最近は、「これ白髪かな」って思って抜いた毛が白髪である確率が高い。白髪はレアアイテムみたいな感じ。不思議なことに髪の毛抜いてると安心する。罪悪感と安心感を同時に得ている。図式は完全にドラッグといっしょかもしれん。死にたい。死にたい。こんな20代女性になるって10代の私は思い描いてなかった。

富山に帰ってきてから毎日を過ごして、お風呂は広いしちゃんとしたごはんも食べられるし家族といるのは安心できるのに、それなのに、セーブポイントがいつになっても見つからない。絶望感に苛まれている。明日は見つかるだろうか。どこにあるのかわからないままずっと歩き続けている。セーブしたい、セーブしたい、いつ倒れてもまたすぐやり直しができるように。毎分ごとにだってセーブしたいのに。それはそうと、アーティストを名乗る人で狂ったふりしてる人たちが本当に無理です。無理でした。無理だと判明しました。まっとうに生きれよ。本当に狂ってる人に失礼だよ。私も大人になったから。とりあえず金髪のヅラまたポチる。朝がくる。眠れない。窓の外すぐそこで1分おきにキジが鳴く。けーんけん。頼むから黙ってくれ

さゆ的・読書のやりかた

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さゆ的・楽しい読書ライフの作法をまとめました。

 

★どんな本を読むか

・友達、著名人、誰でもいいから誰かが薦めていた本。身近な人だと良い。少なくとも1人は面白いと言っているということなので、読んでみる価値あるぞ

・読書案内の本で紹介されてる本。上に同じ

・憧れの人が読んでる本。仮に導入部がつまらなくても「あの人が読んでるから……」ってモチベーションである程度のところまでは読める

・本屋にある「新潮文庫の100冊」みたいなパンフレットに載ってる本。新旧まんべんなく載ってるし、それらの本はとりあえず本屋で普通に買える可能性が高い

・売れてる本。売れてるのには何か理由がある

・何かしら受賞してる本。そういう先入観をもって読むことに是非はあれど、選書の目安にはなっている。ジャンルが一目でわかる賞も多い

・アンソロジーみたいな本。いろいろ読めてお得だしいっぺんにいろんな作家を知れる

 

★ここだけの話!さゆ的・良シリーズ

ポプラ社百年文庫」→国内外の文豪たちの短編アンソロジー。全部で100冊ある。タイトルはそれぞれ漢字1文字で、そのテーマに沿った作品3つが収録されてる。ササッと読める。100冊完全制覇すれば、300人の作家を読んだという計算になる!私は今20冊くらい

筑摩書房ちくまプリマー新書」→ティーン向けの新書。普通の新書は堅苦しくてどうも手が出ないので、こっちのレーベルを片っ端からテキトーに読んでる。ティーン向けということでとにかく読みやすい。世の中のいろんな事象への入り口って感じ

岩波書店岩波ジュニア新書」→これもティーン向けの新書。ちくまプリマーと並んで信頼している

イーストプレスよりみちパン!セ」→ガチで子供向けなので抵抗なく読める。このシリーズには本当にお世話になった。読んで、世界のいろんなことに興味を持てた。ほぼ全部読んでる。今も新刊をいつも楽しみにしてる

筑摩書房ちくま文学の森」→これも国内外の作家のアンソロジー

 

★読む

・しおりは何でもいいから、好きなものにするとテンションあがる。好きなアニメや漫画のトレーディングカードは捨てるか迷って結局いつも本のしおりになる

・本文に線は引かない。習慣づいてしまうと、うっかり図書館の本にやってしまいそうで怖い。それに、線を引くことを考えて本文にいちいち立ち止まっているとマジに読書が進まないタイプなのでガーーッと読む

・意味がわからない言葉や慣用句が出てきたらすぐにググる

 

★読み終えたら

・まずはアプリに記録。私は「読書メーター」を使用

・気分によって独自タグつけてTwitterに投稿

・読後も興奮がおさまらないようならブログなりメモ帳なりに思うことを殴り書き

・レビューを漁ってみる(自衛で、なんとなくアマゾンの見るのは避けてる)。どうしても気になる謎が残る部分は、ネットの海を航海して解説を探してみる

・噛みしめる

 

★その他

・行間がみっちりしてるのと、本文が二段組になってるのはなんとなく生理的に無理で読めない

・図書館めちゃ使う。タダやぞ? 図書館にある本全部タダで読み放題なんやぞ? あんまり気に入った本があればその後買えばいいし

・短編を読みたい期、長編を読みたい期、小説以外の本を読みたい期、がぐるぐると巡っている感じ

・直感的につまらないと思った本は途中で読むのをやめる。面白いつまらないというより、合う合わないの問題だと捉える。私の場合そういう直感は、たいてい当たる。時間がもったいないので、さっさと読むのをやめて次の本にいく

・でも、時間が経ってから読み返すと前回には感じなかったことがブワーッと押し寄せてくるような読書もある

・いわゆる文豪の本は、ファッションで読んでも別にいい。つまり、それを読んでる自分に酔いしれるということ。大いにアリ。見栄で読書、上等

・ただ、読んでて苦痛ならやはり時間がもったいないので読まないほうがいい。私はそういったものたちの「良さ」がわかるほど教養も人生経験もないため、あんまり読まない。もう少し大人になったらわかるかもしれない。文豪ごめん

・文豪の本は、ブックオフで入手する。文豪ごめん

・文庫本もほとんどブックオフで入手

青空文庫で読めそうなものは青空文庫で読んでみるのも良いけど、長い文章だと果てしなくスクロールしていくのが疲れるし、読みたいところからパッとひらけるのはやっぱり紙の本

・海外の小説はよっぽど興味ないと読めない

・ブックカバー集めるの楽しい。個人的には、しっかりとしたものよりペラっとした布のほうが扱いやすい。ハヤカワ文庫は、新潮文庫などよくある文庫本よりもちょっとサイズが大きいから、新潮ジャストのサイズで作られてる市販のブックカバーにはおさまってくれない。可愛い柄のA4の紙を買ってきて折ってブックカバーにもした

読書メーター便利でずっと使っています。読書メーターよりいい感じの記録アプリあったら知りたい

・こだわりがいくつかあれば、選書も楽しいし「読んでよかった」と思う本に出会う率も高くなる気がする

 

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★読書は魔法

本は持ち運べる。どこにでも連れていける。屋外でも屋内でも、電車の中でも、私だけの秘密基地でも、トイレでも。たとえば映画なんかは、そうはいかない。だけど本は持ち運べる。どこでもページを開くことができる。

本は検閲されている。しかるべき人の目を通してから、世の中に出ている。だから、ある程度は信頼できる。たとえばインターネットにかかれていることは、そうはいかない。いろんな人がいろんなことを、よくよく吟味もせずにインターネットの海に投下する。こうしてできあがる、情報の海が、インターネット。

本はどこからでも読める。しおりを挟めば、目印は簡単。早送りや巻き戻しなど煩わしい操作はない、パッとひらくだけ。

漫画も良い。だけど、あっというまに読み終わってしまうものが多いから寂しい。暇をつぶすという観点からは、漫画より活字の本のほうがコスパは良い。

人は自分ひとりぶんの人生しか体験できない。だから、映画を見たり、絵を見たり、音楽を聴いたりすることは、自分以外の誰かの人生にちょっぴりお邪魔すること。読書もそのひとつ。私たちは自分の体でしか、自分の人生しか、たった1本の道しか歩くことができないけど、読書をすることで誰かの追体験ができる。魔法学校に行けるし、自衛隊員になれるし、苦しんでいる人を救えるし、ロマンチックな恋愛ができるし、浮気も不倫もできるし、キリンになれるし、陸上部員になれるし、死んだ人に会えるし、子どもに戻れるし、逆におじいちゃんおばあちゃんにもなれるし、異性にだってなれる。「現実逃避ばっかりしとるなよ」「本ばっかり読んでると体験したこともないのに知識だけが増えて頭でっかちになるぞ」と父に言われたことがある。おおいに頷ける。それでも、幼い頃から今になってもまだ、私はこの娯楽をどうしてもやめられそうにない。