無限ワンアップ・改

さゆゆのメモ箱

笑ってはいけないのに

なんとかして笑いを止めなければならないときって、何か確実な方法はあるのだろうか。何のことを考えたら、確実に釘を刺せるんだろう。低俗なイメージに。

高校のとき、「学校の敷地内にあるジュースの自販機のお釣りのところに人糞が詰められる」という事件があったんだけど、今日なぜか突然それを思い出して、ニヤニヤをおさえるのが大変だった。人糞。私は程度の低い人間だから「うんこ」ネタには絶対笑ってしまう。ていうか何だったんだろうこの事件。キモすぎる。明らかに変態の犯行だし、しかも変態としてのレベルが高い。誰が何の目的でそんなことしたんだろう。いつどうやって詰めたんだろう。どうしてお釣りのところをチョイスしたんだろう。犬などではなく人間の糞だという点がめちゃくちゃおもしろい。先生か事務員さんか知らんけどとにかく大人が「これは人間のうんこだ」と特定したということだ。当時めちゃくちゃ笑ったけど、今でも笑える。色あせない。くだらなさが色あせないよ。

私の場合、思い出し笑いを殺すときは、東南アジアの難民、時間のはじまり、人間の起源、神の存在、人工知能の発達などに思いを馳せる。あとは、たとえば、池上彰せんせいの番組で話題になりそうな社会問題などを。とにかくまじめなことを考えて、笑いを塗りつぶそうとする。でも、「笑ってはいけない」という状況のときほど、笑いの沸点が低くなってしまう。どうしてだろう。何もかもがおもしろく感じる。普段は気にも留めないことが、おもしろおかしく感じる。困る。年末にやってるダウンタウンのあの番組は、「笑ってはいけない」というルールが設けられた時点でもう、ある程度おもしろくなることが約束されているのだと思う。世紀の発見だ。「笑ってはいけない」というシチュエーションは、ヤバいのだ。

昨年の秋にじいちゃんが亡くなって、通夜や葬儀があったんだけど、それを担当(?)してくれたお坊さんが、ちょっとお歳がお歳で、これはもう、失礼ながらボケてきてるんじゃないだろうかという感じだった。地域や宗派によるのかもしれないが、私の家の葬儀は「お経のあとに、お坊さんが“仏教のちょっといい話”みたいなのをする」という流れがあるんだけど、それが死ぬほどグダグダで、めちゃくちゃおもしろかった。笑いをこらえるのが無理だった。同じ話を何回も繰り返して「つまり何が言いたいんや?」と思うとまた話が振りだしに戻る。あれれ、この坊さん…大丈夫なのか…と思ったら、隣に座っている弟がうつむいて体を震わせ始めた。最初は、じいちゃんとの別れが悲しくて泣いているのかと思ったが、違った。爆笑をこらえていたのだ。「これってもしかしてめちゃくちゃおもしろいのでは」と気付くともう無理だった。何もかもおもしろい。坊さんの話し方の語尾も、袈裟を微妙に着崩しているのも、頭のハゲ具合も、おもしろくて仕方ない。それでも、なんとか笑いを遠ざけようとして頑張ってシリアスなことを考える。じいちゃんは死んだのだ、もう会えないのだ。今はじいちゃんの葬儀なんだ、じいちゃんのことを考えよう。でもこんなときになぜかじいちゃんの爆笑おもしろエピソードを思い出す。どうしてなんだ。これはマズイぞと思い、最終手段として、東南アジアの難民に思いを馳せる。しかしちょっと油断すると、袈裟を着崩した半ボケのジジイが視界にブチ込まれてくる。無理だ。勝てない。私は無力だ。通夜や葬儀って「笑ってはいけない」の最たるシチュエーションだ。だって、人が死んでるんだぞ。そのうちダウンタウンの年末のあれも「笑ってはいけない冠婚葬祭」があるんじゃないだろうか。

坦々麺っぽいそうめん

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最高じゃん。これは去年の夏にTwitterで流行ってたレシピ。インターネッツに落ちてるレシピ、特にSNSで流行るレシピにはアタリが多いなぁとしみじみ思う。流行るものには流行る理由がある。簡単かうまいかのどっちか、もしくは両方。

必要なものはそうめん、めんつゆ、豆乳、食べるラー油の4点。勤務中に思い巡らす、自宅にないのは豆乳だけ。200mlパックの豆乳を買って帰宅。78円。実をいうと豆乳を飲んだことがない…

私のやってみた作り方:めんつゆ(うちのは2倍濃縮)50ccくらい、豆乳80〜100ccくらい、食べるラー油スプーン1〜2杯を混ぜる。おわり

うまぁぁぁぁ。期待裏切らんな〜。見た目がめちゃ辛そうだけど、ちっとも辛くない。マイルド。逆にいえば味にパンチがない。でも自宅料理にはパンチを求めない。あと食べるラー油の具が超いい感じにそうめんに絡むから、汁の中に具が残らない。おいしい〜!そもそも私は食べるラー油という食品がたいそう好きなのでこれは幸せしかない。"追い食べラー"しそうになった。坦々麺っぽさを強めたかったから途中ですりごまを加えてみる。これも違和感なし。良き。もしかして、この組み合わせを鍋であっためれば、坦々麺っぽいそうめん(あったかい)が食べられるのでは???(豆乳って加熱して大丈夫?)

とにかくリピ決定です。

今夏のそうめんアレンジの覇権となるのか?

パンダはシーフード味

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たった今この瞬間が過ぎていくということ。そう、こうしている間にもお給料は発生している。そう思いながらも、「おなかすいてるなら今サッと食べてきていいよ」と言ってもらえたから、誰も来ない非常階段に続く扉を職員証で解錠して、異国の言葉で包装されたクッキー、食べるよ。むしゃむしゃ。カルピス味のミンティア、噛み潰すよ。ボリボリ。アハハーン

 

 

今日はじめて知ったのは「サメは哺乳類ではない」ということ。魚類だって。へぇーボタン連打。あんまりイメージできないけど、たまごからうまれるのかな。クジラやイルカやシャチの仲間ではないんだって。似てるのに不思議。こないだ水族館で見たトラフザメかわいかった。

 


暑い。でも日傘なんて、自分のキャラじゃない。それなのに必要に迫られている。なぜならそこそこ「歩く」生活を送っているからだ。もういい歳だし、お肌の曲がり角も過ぎて、シミ、そばかす、日焼け、それも気になるけど、そんなことより私は、手の皮膚が紫外線にめちゃくちゃ弱い。顔よりもガードすべきだ。日差しの強い日に屋外に長時間いると、指や手の甲に発疹ができる。ひどいときはブクブクのボロボロになる。自分のおててがグロ画像になる。しかも多少かゆい。それが冬はあんまり出ない。だから夏に向けて日傘よりまずは日焼け止めを買うべきだ。高校生のときは「大人になったらアネッサ(2000円くらいの日焼け止め)を使うようになる」と思っていた。自然にアネッサを手に取るようになるのだと。でも実際は今年も600円くらいのビオレのを買うだろう。たぶん絶対そうする。私はそういう奴だ。すでにわかる。見える。未来が。私はアネッサを選べない。というかアネッサがおめーを選ばねーよ。選ぶわけねーよ。バカ言ってんじゃねーよ。

クジャクヤママユ

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市役所行くのは明日にしよう。

市役所、今日雨だし…次の晴れた日でいいや。

市役所、来週には行こう。

市役所、来月中には絶対行こう。

市役所……春のうちには済ませたい。

 

そして夏になりそう。バカか。ここに引っ越してきて、あっという間に3か月が過ぎた。愛おしい5月が少しずつ、でも確実に、すり減っていく。ああー。待ってよ〜、まだ心から5月を謳歌してない気がする。多分実際は、謳歌しまくってるんだけど。

市役所は、市立図書館の利用カードが作れないことにそろそろ我慢ができないから、行く。今月中には。たぶん。行くよ。言ったな。おまえ行くって言ったからな。行けよ。絶対だぞ。絶対行けよ。今月中に。

はい、行けたら行きます。

 

 

 

ふと思い出したこと

おそらく中学校の、国語の教科書に載ってる、あの、後味の悪い小説。【友達の蝶の標本を盗む】やつ。ヘルマン・ヘッセの。「つまり君は、そんなやつだったんだな」ってやつ。読後鬱に襲われるやつ。考えさせられるやつ。アレのタイトルが、謎なのだ。私の教科書では「クジャクヤママユ」だった。絶対それだった。間違いない。それで、高校だか大学だかに入学してその話題になって「それ知ってる!クジャクヤママユだよね」と言ったらその場にいた全員に「なにそれ」と言われた。どうやら正しくは「少年の日の思い出」というタイトルらしい。何やねん。もういい、ウキウキペディア先生に聞いてやる。って調べてみたら、あらすじの項目に

原文であるドイツ語には、単語で「蝶」と「蛾」を区別することがない。

 へぇー。おもしろい。そう言われてみれば、蝶と蛾って何をもって区別するんやろ。羽ばたきの回転数とかだろうか。今度調べよ。(私はどっちも無理だから、できるだけ画像を見ないようにしながら)

ラッパーの横顔

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私がラップ、しかも日本語のラップというものを好きなのは、やっぱり、言葉を尽くしてるからだろう。と思った、今日。

私は弾き語りでライブ活動をしてて、初めて演奏を観てくれた方に「あなたは"言葉の人"だね」と言われることが、わりとある。実際めちゃくちゃ考えてるし、ジャッジが厳しい。ちょっとでも違和感がある言葉は歌に採用しないようにしている、歌ってる自分が気持ち悪いから。私はどうしても言葉が好きだし、小説が好きだしエッセイが好きだし、Twitterもブログも好きだし、詩歌も大好き。

ラッパーの人が次々に出てくるようなライブは、私にとって「そうきたか」の連続だ。「そうきたか」っていうのは、「そんな語彙があったか」とか「そんな言い換えがあったか」とか「そんな英単語を使うのか」「そこで押韻があるのか」っていう、だいたいが歌詞に関するもの。ラップって「フロウ」っていう、言いまわし(歌いまわし?)のテクニックも問われる世界らしいんだけど、それよりもまず私は使われている言葉が気になる。まぁ、発語が不明瞭だとまずその言葉すら届かないからフロウが大切というのもわかるけど。

ハッとする"言葉"に出会う頻度が高いのはやっぱり、ラッパーのライブ。詩人もグッとくること多いんだけど、詩人は純度が高い弾丸を確実に撃ち込んでくる感じがする。弾数はそこまで多くない。歌の人の言葉はグッとくることそんなにない。歌は言葉のほかにメロディーという要素があるから、そこでグッとくるけど、純粋に言葉だけにグッとくることって滅多にない。ラッパーはとにかく言葉の数が多い。喋りまくる。だから、撃ち込む弾数の絶対数が多いというか母数が多いというか。だから私のような聴き手にキマる頻度も高いんだろう。俗にいうパンチラインというやつ。私は感受性がバカみたいに豊かだから、おもしろいくらいに撃ち抜かれる。

ライブハウスやクラブで目にするラッパーの人たちは、いつも、みんな酒を片手に談笑したり、ステージに向かって大きな声をあげたりしてる。みんな明るくて、酔っぱらってて、パリピって感じがする。でも、家で、歌詞(リリックと呼ぶのかな)を考えるときは全然違った横顔を見せるんだろうなと想像する。使うのはノートか、Wordか、はたまたスマホのメモアプリか。たったひとつの言葉に辿りつくために、辞書を引いたり、ウィキペディアをひらいたり、お気に入りの小説を読み返したり、するんだろうか。自分と向き合わなきゃ、たしかな言葉って出てこない。自分と向き合うときって、パリピなんて語とはかけ離れてる。孤独。その中に宝物みたいな言葉がある。演者として自分を更新し続ける中で、それでもあなたがいつもライブで必ずやるその1曲は、それまでのあなたの人生すべてなんだろう。歌詞は推敲に推敲を重ねたのか、スルッとできてしまったのか、どうやって生まれたのかはわからないけど、でも大切な曲なんでしょう。宝物みたいな1曲なんでしょう。わかるよ。

かっこいいなあ。ラッパー。バンドマンとは違う、なんていうか、文系のかっこよさ。もちろん服装とか思想とかのかっこよさもあると思うけど、私にとってはそういう佇まいとかではなく、とにかく、言葉や発語での説得力。かっこいいね。いいなあ。こないだ久しぶりに会ったラッパーの友達に「片山さゆ里は歌詞の作り方が完全にラッパーやねん」って言われたのが、思いのほか、嬉しかったよ。

おっぱい反対

ここ2、3年くらいずっとブラジャーつけずに暮らしてた(※後述)。こないだ衣料量販店(しまむら)でノンワイヤーの超かわいいやつを安く買って、着合わせなどのタイミングで昨日使えるタイミングだったからウキウキしながらつけたら、ブラジャー自体久しぶりだったから胸の締めつけが超苦しくて、思春期を思い出した。初めてブラジャーをつけたときの違和感を。えっ、女の人ってこんな苦しいもんずっとつけてんのかよと思った、あの感覚。文字通り、マジで胸が苦しい。

おっぱいが育ち始めて、自分がおっぱいの「当事者」になってから、おっぱいのことをずっと考えてる気がする。あの子ずっと体操服に乳首がポッチリ浮いてるな~と思ってたクラスメートの胸部に、ある日突然、山が隆起する。スポブラである。もしくはパッドやカップ入りのキャミソール。

実は今もわりと女の人のおっぱいを見てしまう。もしかすると男の人よりおっぱいのことを考えている可能性がある。まず、風呂に入るときは全裸になるし、そのときに自分の体を見て、必ずおっぱいのことを考える。したがって1日に最低1回はおっぱいのことを考える時間がある。でもエロい気分には繋がらないのが男の人との違いだろう。おっぱいは現実だから。おっぱいについて考えるのも、バストアップ体操の効果あったかなとか、毛が生えてきたから処理しなきゃとか、ふくらんで張ってきたからそろそろ生理だとか。そんなん。おっぱいに夢なんて詰まってない。おっぱいはどこまでも現実だ。

なんか生理みたいな感じ。おっぱいのことと生理のことは同一のカテゴリに入る。めんどくさいけど自分と切り離せない。私はおっぱいの成長だとかそれに伴ってブラジャー使い始めるとかより、とにかく、初潮が早かった。初潮のショックがマジでヤバかった。普通に体育のあと、普通にトイレ行って、普通にパンツおろしたら、パンツの中が真っ黒になってた。びっくりして泣いた。いや普通にびっくりするやろ。よくある「女子だけ集められて体育館で謎のビデオ見せられる」授業もあったし、知識としてはわかってるつもりだったけど、それでもびっくりしすぎて泣いた。おっぱいの成長はそのあとからだったからまあまあ受け入れられた。

 


おっぱいもブラジャーも邪魔だ。いらね。ブラジャーの上にキャミソール着たら肩ヒモが2本になって、なんかそれがもう死ぬほど鬱陶しい。うざ。なんで2本あるんや(理不尽な怒り)。いらね。うざ。邪魔。いらね。許されるならばノーブラとかを超えてもう、全裸で歩きたい。もう夏だし。しかし司法が許さない

 


※「ブラトップ」という、おっぱいの部分にカップ入りのキャミソールやタンクトップを着ているためである。ブラジャーをつけないというのはそういう意味であり、私は決して痴女ではない

シゲヒコとタルホ

先月から始めた仕事に少しずつ少しずつ慣れてきて、今日は、ようやく「そもそもここには何があるのか」を見る余裕があった。

外山滋比古の著作集を見つけた。文学全集みたいな感じ、全部で7巻くらいあった。だいぶ前に、とあるアンソロジー的な本で短めの文章を読んだことがあって、それがかなり面白くて名前をググった記憶がある。大学などでその手の学問を歩む人なら当たり前のように知ってる名前なんだろうな〜と思った。いや、その手の学問って具体的に何なんだろ。私はこの人の名前を知らなかった。今94歳だって。へえー。今とか毎日何しとんがやろ。かなり高齢だ。

稲垣足穂の全集も見つけた。これは装丁というか何というか、表紙のタルホのサインが超かわいいのだ。サイン、パクろうかな。一千一秒物語をまた読みたいなと思った。あれもサイン同様に、かわいい作品だ。小説っていうか詩とも言えるかもしれない。それらの、何がかわいいかというとつまりはモチーフにある天体だと思う。お月様とかお星様とか。ウキウキペディアによるとタルホは23歳で一千一秒物語を発表したということで、だとしたら、仮に同時代に生きてたら私も、(女の子が若いバンドマンに恋をするように)タルホに心を奪われていたのかもしれないなと思う。読んだらそういう感じがした。そんなタルホ、とっくにパブドメかと思ったのにまだ没後40年しか経ってない。へえー。

今日見つけられたのはそれだけ。外山滋比古稲垣足穂だけ。あと残り全部、背景。余裕ないなぁ。なんも見えん。いっぱいいっぱいだ。早く慣れたい。もっと"知り合い"を見つけたい。可能なら、なるべく楽しく働きたい。おーい、見つけに行くからなー


あとは、なんか、医療に関する本や雑誌が山ほどある、ということはわかった。本当に山ほどある。途方もない。もちろん医療と言っても細かく枝分かれしているみたいで、たとえば骨とか腸とか脳とか精神とか看護とか介護とか、あと放射線治療とか、医学史?とか。本のタイトルを見ても中に何が書いてあるのか全然わからないし、開いて読んでみても何が書いてあるのか全然わからない。わからない、無理、無理〜。でも、そんなことも言ってられないらしい。なぜなら、医療に関する本がもっともっと山ほどあるところでの勤務がそのうちあるらしいからだ。勉強しなければなぁ。最低限の知識を武装していかないと、やられる。でも楽しみだなぁ。世界、広い。とりあえず看護師の友達にいろいろ聞こっと