無限ワンアップ・改

さゆゆのメモ箱

いつもありがとうございます

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ライブにきてくれる人。ありがとうございます。集客のこと考えたら病んじゃう。いやぁ本数増えるとね。チケットノルマは12000年前から払ってないからお金のことなら気にしないでいいけど、それでもやっぱり、集客のこと考えたら病んじゃう。よく一緒になる出演者なんかの、ついでに観られてラッキー、だと思われてんだろうか。私に予約はないし。ついでか。でもありがとうございます。むずかしい、たくさんの人の一番にはなれないなあ。でもなんか、あー、あー嫌だなあ、媚びるみたいなのは死んでも嫌だなあ。めちゃ良い音楽をやっとる自信があるけど、これは前にも書いたことがあるんだけど女かつソロであるというフォーマットが死ぬほど邪魔だなあと思って、そういう問題を考えれば考えるほどライブ活動というか人前に出るのがだるくなるな。素性も全部隠して作品づくりだけ続けるとか。まーなんでもいいわ何かしら続けとるからおまえが元気なときかつチケットがとれるうちにいつでも来てくれ、たとえば月例レギュラーの無善寺、やっと毎月誰かしらお客さんが来てくれるようになった。いくら人を呼んでも一銭も演者に入らない無善寺ではあるが。私の冠デーになってから最初のほうもちろん出演者しかいない日もあったが。第3木曜日だよ〜って続けて言いふらしてきて良かった。あとは切実な話おかげさまおかげさまさまでワンマンライブはすでに余裕の余裕で黒字(あとはどこまで人を詰めるか、私の気分次第でいつでもソールドアウトになる)。ワンマンは、気合いを入れてるのが伝わったのか反応が大きくてうれしい。予約たくさんうれしい。お客さんも私と同じくらい気合い入ってるってわかるよ、なぜなら当日まで何か月も日があるのにこんなに早くから予約をくれるんだもの。その気合いに私は心からのいいねを贈りたい。そんでも、そんでも普段のライブにもっともっと来てくれたらどんなに心強いか思うよ。今は、そもそも表現することやモノをつくることが楽しくて仕方ないというフェーズに移行してきて、もし仮に、いいねもRTも集客も再生数も、そういうリアクションすべてが一切なくなったとしても、続けていく、そのための愛と衝動はそうそう枯渇しない気がする。そもそもライブ始めた頃はそうだったじゃんね、愛と衝動しかなかった。かつて、ライブハウスの出演者パスの布ステッカーが宝物みたいに輝いて見えた日が、服に貼ったまま雨に濡れないように大切に大切に持ち帰った日が、あったこと。今もそんなふうに愛と衝動にあふれた私のこと、観にきてくれたらもっと加速するから、ぜひどうか、よろしくお願いします。いつもチケットも決して安くはないよなあ、でも絶対、もう絶対に二度と、悪いようにはしない。何かしらを持ち帰ってもらえる30分を渡します。はあ、まぁとりあえず明日からもまた頑張ります、と宣言して誓いの言葉とさせていただきます。こんなこと言ってるのがダセーから能書き垂れてるよりヤル、ヤル、ヤルよー。明日は早く起きてどうにか新しい曲サンクラに載せます。最近歌詞がめちゃくちゃ書けてすごいよ。何もかもが歌の肥やしになってたんだなって気づいたらもうバババーッて。マイクロソフト・ワードに。歌詞が。なんかね「これは可、これは不可」ってことばを選り分けてる頭の中の検閲官が弱ってるからめっちゃ書けるんだ最近。歌詞。せき止める人がいないからゲボみたいに出てくる。最悪な出来事を詰め込んだアルバムを作りたくて、そう遠くない未来にめっちゃコンセプチュアルな作品ができると思います。どうか何かが変わりそうな気配をください。あの、なんか去年、いっぺん、もう無理や音楽やめるわ終了しますありがとうございました言うたら、ライブ行きたかったのに残念だよって言うてくれた人、おったよな、おったよね、蘇った今こそライブ来てくれと思うわ、いやそんな人は本当におったんか、あれはストロングゼロの見せた幻だったんか…

笑ってはいけないのに

なんとかして笑いを止めなければならないときって、何か確実な方法はあるのだろうか。何のことを考えたら、確実に釘を刺せるんだろう。低俗なイメージに。

高校のとき、「学校の敷地内にあるジュースの自販機のお釣りのところに人糞が詰められる」という事件があったんだけど、今日なぜか突然それを思い出して、ニヤニヤをおさえるのが大変だった。人糞。私は程度の低い人間だから「うんこ」ネタには絶対笑ってしまう。ていうか何だったんだろうこの事件。キモすぎる。明らかに変態の犯行だし、しかも変態としてのレベルが高い。誰が何の目的でそんなことしたんだろう。いつどうやって詰めたんだろう。どうしてお釣りのところをチョイスしたんだろう。犬などではなく人間の糞だという点がめちゃくちゃおもしろい。先生か事務員さんか知らんけどとにかく大人が「これは人間のうんこだ」と特定したということだ。当時めちゃくちゃ笑ったけど、今でも笑える。色あせない。くだらなさが色あせないよ。

私の場合、思い出し笑いを殺すときは、東南アジアの難民、時間のはじまり、人間の起源、神の存在、人工知能の発達などに思いを馳せる。あとは、たとえば、池上彰せんせいの番組で話題になりそうな社会問題などを。とにかくまじめなことを考えて、笑いを塗りつぶそうとする。でも、「笑ってはいけない」という状況のときほど、笑いの沸点が低くなってしまう。どうしてだろう。何もかもがおもしろく感じる。普段は気にも留めないことが、おもしろおかしく感じる。困る。年末にやってるダウンタウンのあの番組は、「笑ってはいけない」というルールが設けられた時点でもう、ある程度おもしろくなることが約束されているのだと思う。世紀の発見だ。「笑ってはいけない」というシチュエーションは、ヤバいのだ。

昨年の秋にじいちゃんが亡くなって、通夜や葬儀があったんだけど、それを担当(?)してくれたお坊さんが、ちょっとお歳がお歳で、これはもう、失礼ながらボケてきてるんじゃないだろうかという感じだった。地域や宗派によるのかもしれないが、私の家の葬儀は「お経のあとに、お坊さんが“仏教のちょっといい話”みたいなのをする」という流れがあるんだけど、それが死ぬほどグダグダで、めちゃくちゃおもしろかった。笑いをこらえるのが無理だった。同じ話を何回も繰り返して「つまり何が言いたいんや?」と思うとまた話が振りだしに戻る。あれれ、この坊さん…大丈夫なのか…と思ったら、隣に座っている弟がうつむいて体を震わせ始めた。最初は、じいちゃんとの別れが悲しくて泣いているのかと思ったが、違った。爆笑をこらえていたのだ。「これってもしかしてめちゃくちゃおもしろいのでは」と気付くともう無理だった。何もかもおもしろい。坊さんの話し方の語尾も、袈裟を微妙に着崩しているのも、頭のハゲ具合も、おもしろくて仕方ない。それでも、なんとか笑いを遠ざけようとして頑張ってシリアスなことを考える。じいちゃんは死んだのだ、もう会えないのだ。今はじいちゃんの葬儀なんだ、じいちゃんのことを考えよう。でもこんなときになぜかじいちゃんの爆笑おもしろエピソードを思い出す。どうしてなんだ。これはマズイぞと思い、最終手段として、東南アジアの難民に思いを馳せる。しかしちょっと油断すると、袈裟を着崩した半ボケのジジイが視界にブチ込まれてくる。無理だ。勝てない。私は無力だ。通夜や葬儀って「笑ってはいけない」の最たるシチュエーションだ。だって、人が死んでるんだぞ。そのうちダウンタウンの年末のあれも「笑ってはいけない冠婚葬祭」があるんじゃないだろうか。

坦々麺っぽいそうめん

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最高じゃん。これは去年の夏にTwitterで流行ってたレシピ。インターネッツに落ちてるレシピ、特にSNSで流行るレシピにはアタリが多いなぁとしみじみ思う。流行るものには流行る理由がある。簡単かうまいかのどっちか、もしくは両方。

必要なものはそうめん、めんつゆ、豆乳、食べるラー油の4点。勤務中に思い巡らす、自宅にないのは豆乳だけ。200mlパックの豆乳を買って帰宅。78円。実をいうと豆乳を飲んだことがない…

私のやってみた作り方:めんつゆ(うちのは2倍濃縮)50ccくらい、豆乳80〜100ccくらい、食べるラー油スプーン1〜2杯を混ぜる。おわり

うまぁぁぁぁ。期待裏切らんな〜。見た目がめちゃ辛そうだけど、ちっとも辛くない。マイルド。逆にいえば味にパンチがない。でも自宅料理にはパンチを求めない。あと食べるラー油の具が超いい感じにそうめんに絡むから、汁の中に具が残らない。おいしい〜!そもそも私は食べるラー油という食品がたいそう好きなのでこれは幸せしかない。"追い食べラー"しそうになった。坦々麺っぽさを強めたかったから途中ですりごまを加えてみる。これも違和感なし。良き。もしかして、この組み合わせを鍋であっためれば、坦々麺っぽいそうめん(あったかい)が食べられるのでは???(豆乳って加熱して大丈夫?)

とにかくリピ決定です。

今夏のそうめんアレンジの覇権となるのか?

パンダはシーフード味

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たった今この瞬間が過ぎていくということ。そう、こうしている間にもお給料は発生している。そう思いながらも、「おなかすいてるなら今サッと食べてきていいよ」と言ってもらえたから、誰も来ない非常階段に続く扉を職員証で解錠して、異国の言葉で包装されたクッキー、食べるよ。むしゃむしゃ。カルピス味のミンティア、噛み潰すよ。ボリボリ。アハハーン

 

 

今日はじめて知ったのは「サメは哺乳類ではない」ということ。魚類だって。へぇーボタン連打。あんまりイメージできないけど、たまごからうまれるのかな。クジラやイルカやシャチの仲間ではないんだって。似てるのに不思議。こないだ水族館で見たトラフザメかわいかった。

 


暑い。でも日傘なんて、自分のキャラじゃない。それなのに必要に迫られている。なぜならそこそこ「歩く」生活を送っているからだ。もういい歳だし、お肌の曲がり角も過ぎて、シミ、そばかす、日焼け、それも気になるけど、そんなことより私は、手の皮膚が紫外線にめちゃくちゃ弱い。顔よりもガードすべきだ。日差しの強い日に屋外に長時間いると、指や手の甲に発疹ができる。ひどいときはブクブクのボロボロになる。自分のおててがグロ画像になる。しかも多少かゆい。それが冬はあんまり出ない。だから夏に向けて日傘よりまずは日焼け止めを買うべきだ。高校生のときは「大人になったらアネッサ(2000円くらいの日焼け止め)を使うようになる」と思っていた。自然にアネッサを手に取るようになるのだと。でも実際は今年も600円くらいのビオレのを買うだろう。たぶん絶対そうする。私はそういう奴だ。すでにわかる。見える。未来が。私はアネッサを選べない。というかアネッサがおめーを選ばねーよ。選ぶわけねーよ。バカ言ってんじゃねーよ。

クジャクヤママユ

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市役所行くのは明日にしよう。

市役所、今日雨だし…次の晴れた日でいいや。

市役所、来週には行こう。

市役所、来月中には絶対行こう。

市役所……春のうちには済ませたい。

 

そして夏になりそう。バカか。ここに引っ越してきて、あっという間に3か月が過ぎた。愛おしい5月が少しずつ、でも確実に、すり減っていく。ああー。待ってよ〜、まだ心から5月を謳歌してない気がする。多分実際は、謳歌しまくってるんだけど。

市役所は、市立図書館の利用カードが作れないことにそろそろ我慢ができないから、行く。今月中には。たぶん。行くよ。言ったな。おまえ行くって言ったからな。行けよ。絶対だぞ。絶対行けよ。今月中に。

はい、行けたら行きます。

 

 

 

ふと思い出したこと

おそらく中学校の、国語の教科書に載ってる、あの、後味の悪い小説。【友達の蝶の標本を盗む】やつ。ヘルマン・ヘッセの。「つまり君は、そんなやつだったんだな」ってやつ。読後鬱に襲われるやつ。考えさせられるやつ。アレのタイトルが、謎なのだ。私の教科書では「クジャクヤママユ」だった。絶対それだった。間違いない。それで、高校だか大学だかに入学してその話題になって「それ知ってる!クジャクヤママユだよね」と言ったらその場にいた全員に「なにそれ」と言われた。どうやら正しくは「少年の日の思い出」というタイトルらしい。何やねん。もういい、ウキウキペディア先生に聞いてやる。って調べてみたら、あらすじの項目に

原文であるドイツ語には、単語で「蝶」と「蛾」を区別することがない。

 へぇー。おもしろい。そう言われてみれば、蝶と蛾って何をもって区別するんやろ。羽ばたきの回転数とかだろうか。今度調べよ。(私はどっちも無理だから、できるだけ画像を見ないようにしながら)

ラッパーの横顔

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私がラップ、しかも日本語のラップというものを好きなのは、やっぱり、言葉を尽くしてるからだろう。と思った、今日。

私は弾き語りでライブ活動をしてて、初めて演奏を観てくれた方に「あなたは"言葉の人"だね」と言われることが、わりとある。実際めちゃくちゃ考えてるし、ジャッジが厳しい。ちょっとでも違和感がある言葉は歌に採用しないようにしている、歌ってる自分が気持ち悪いから。私はどうしても言葉が好きだし、小説が好きだしエッセイが好きだし、Twitterもブログも好きだし、詩歌も大好き。

ラッパーの人が次々に出てくるようなライブは、私にとって「そうきたか」の連続だ。「そうきたか」っていうのは、「そんな語彙があったか」とか「そんな言い換えがあったか」とか「そんな英単語を使うのか」「そこで押韻があるのか」っていう、だいたいが歌詞に関するもの。ラップって「フロウ」っていう、言いまわし(歌いまわし?)のテクニックも問われる世界らしいんだけど、それよりもまず私は使われている言葉が気になる。まぁ、発語が不明瞭だとまずその言葉すら届かないからフロウが大切というのもわかるけど。

ハッとする"言葉"に出会う頻度が高いのはやっぱり、ラッパーのライブ。詩人もグッとくること多いんだけど、詩人は純度が高い弾丸を確実に撃ち込んでくる感じがする。弾数はそこまで多くない。歌の人の言葉はグッとくることそんなにない。歌は言葉のほかにメロディーという要素があるから、そこでグッとくるけど、純粋に言葉だけにグッとくることって滅多にない。ラッパーはとにかく言葉の数が多い。喋りまくる。だから、撃ち込む弾数の絶対数が多いというか母数が多いというか。だから私のような聴き手にキマる頻度も高いんだろう。俗にいうパンチラインというやつ。私は感受性がバカみたいに豊かだから、おもしろいくらいに撃ち抜かれる。

ライブハウスやクラブで目にするラッパーの人たちは、いつも、みんな酒を片手に談笑したり、ステージに向かって大きな声をあげたりしてる。みんな明るくて、酔っぱらってて、パリピって感じがする。でも、家で、歌詞(リリックと呼ぶのかな)を考えるときは全然違った横顔を見せるんだろうなと想像する。使うのはノートか、Wordか、はたまたスマホのメモアプリか。たったひとつの言葉に辿りつくために、辞書を引いたり、ウィキペディアをひらいたり、お気に入りの小説を読み返したり、するんだろうか。自分と向き合わなきゃ、たしかな言葉って出てこない。自分と向き合うときって、パリピなんて語とはかけ離れてる。孤独。その中に宝物みたいな言葉がある。演者として自分を更新し続ける中で、それでもあなたがいつもライブで必ずやるその1曲は、それまでのあなたの人生すべてなんだろう。歌詞は推敲に推敲を重ねたのか、スルッとできてしまったのか、どうやって生まれたのかはわからないけど、でも大切な曲なんでしょう。宝物みたいな1曲なんでしょう。わかるよ。

かっこいいなあ。ラッパー。バンドマンとは違う、なんていうか、文系のかっこよさ。もちろん服装とか思想とかのかっこよさもあると思うけど、私にとってはそういう佇まいとかではなく、とにかく、言葉や発語での説得力。かっこいいね。いいなあ。こないだ久しぶりに会ったラッパーの友達に「片山さゆ里は歌詞の作り方が完全にラッパーやねん」って言われたのが、思いのほか、嬉しかったよ。

おっぱい反対

ここ2、3年くらいずっとブラジャーつけずに暮らしてた(※後述)。こないだ衣料量販店(しまむら)でノンワイヤーの超かわいいやつを安く買って、着合わせなどのタイミングで昨日使えるタイミングだったからウキウキしながらつけたら、ブラジャー自体久しぶりだったから胸の締めつけが超苦しくて、思春期を思い出した。初めてブラジャーをつけたときの違和感を。えっ、女の人ってこんな苦しいもんずっとつけてんのかよと思った、あの感覚。文字通り、マジで胸が苦しい。

おっぱいが育ち始めて、自分がおっぱいの「当事者」になってから、おっぱいのことをずっと考えてる気がする。あの子ずっと体操服に乳首がポッチリ浮いてるな~と思ってたクラスメートの胸部に、ある日突然、山が隆起する。スポブラである。もしくはパッドやカップ入りのキャミソール。

実は今もわりと女の人のおっぱいを見てしまう。もしかすると男の人よりおっぱいのことを考えている可能性がある。まず、風呂に入るときは全裸になるし、そのときに自分の体を見て、必ずおっぱいのことを考える。したがって1日に最低1回はおっぱいのことを考える時間がある。でもエロい気分には繋がらないのが男の人との違いだろう。おっぱいは現実だから。おっぱいについて考えるのも、バストアップ体操の効果あったかなとか、毛が生えてきたから処理しなきゃとか、ふくらんで張ってきたからそろそろ生理だとか。そんなん。おっぱいに夢なんて詰まってない。おっぱいはどこまでも現実だ。

なんか生理みたいな感じ。おっぱいのことと生理のことは同一のカテゴリに入る。めんどくさいけど自分と切り離せない。私はおっぱいの成長だとかそれに伴ってブラジャー使い始めるとかより、とにかく、初潮が早かった。初潮のショックがマジでヤバかった。普通に体育のあと、普通にトイレ行って、普通にパンツおろしたら、パンツの中が真っ黒になってた。びっくりして泣いた。いや普通にびっくりするやろ。よくある「女子だけ集められて体育館で謎のビデオ見せられる」授業もあったし、知識としてはわかってるつもりだったけど、それでもびっくりしすぎて泣いた。おっぱいの成長はそのあとからだったからまあまあ受け入れられた。

 


おっぱいもブラジャーも邪魔だ。いらね。ブラジャーの上にキャミソール着たら肩ヒモが2本になって、なんかそれがもう死ぬほど鬱陶しい。うざ。なんで2本あるんや(理不尽な怒り)。いらね。うざ。邪魔。いらね。許されるならばノーブラとかを超えてもう、全裸で歩きたい。もう夏だし。しかし司法が許さない

 


※「ブラトップ」という、おっぱいの部分にカップ入りのキャミソールやタンクトップを着ているためである。ブラジャーをつけないというのはそういう意味であり、私は決して痴女ではない