無限ワンアップ・改

さゆゆのメモ箱

とんかつカズユキ

その駅ビルは、あんまり大きくないけど、中の店舗は結構充実してた。本屋と、成城石井と、パン屋と、チェーンの喫茶店と、女性向けジムがあって、あとは忘れた。入口のいちばん客が出入りする角に、とんかつカズユキ(和幸)の売店があって、私はそこで夜間のバイトを始めた

その街には子供と年寄りが多くて、つまりそれの世話をする主婦も多かった。主婦たちは夕方、店に押し寄せた。私はその相手をした。注文をとり、とんかつをパックに詰めて袋に入れて渡した。主婦たちはまあまあ金を持っていて、夜のおかずの価格帯なんて気にしなくていいらしく、そのように気兼ねなくたくさんのとんかつを買って行った

私をバイトに採用してくれた店長はやさしい初老の男性だった。夕方に店が混んで来たら少し機嫌が悪くなるけど、それ以外は優しくて、世間知らずの私に領収書の書き方を教えてくれた。そのあとすぐに店長は店に来なくなって、かわりにブタのような男がきた。ブタは新しい店長だといい、出会ってすぐの私を乱暴に使った。夕方に店が混んできたら機嫌が悪くなるのは前の店長以上で、私はいつも心を殺してその時間をしのいだ

ある日、「片山さん。今週土曜に立川行ってね」と命じられた。何の予告もなかった。何かというと、駅ビルの各店舗の代表者が接客スキルを見せ合って優勝を決める大会が立川であるのだが、うちの店からも誰かが行かなければならないという。「私は何をしたらいいんですか」と聞くと「まあ適当にやってきてよ」と雑な返事だった。なぜ私なのかわからないし、そもそもなんて不毛な催事なんだろうと思ったが、その頃の私は、世界のなにもかもにおびえるように生きていたので、黙ってうなずいた

電車で立川に到着し、会場であるビルの会議室に入ると、各店舗から選ばれた精鋭の店員さんたちが集っていた。店員さんたちは、自分の店の小道具(たとえば喫茶店ならコーヒーカップとか)を使って、自分の店の商品やサービスをプレゼンした。ほどなくして私の番がきた。事前に詳しいことを聞いてない私は道具がないので、精鋭の店員さんたちの前で、透明な春キャベツクリームコロッケを透明なトングで取って透明な客に売った。けっこうみじめだった。今ここでチンコとかマンコとか叫んで会議室を飛び出して、ブタ店長のめんつを丸潰しにすることを考えたけど、やめた。自分がかわいそうで涙が出た。その後、どっかの店舗が優勝になり、「でも、みんな素晴らしかった」と拍手を送り合って、大会は終わった。自駅まで帰ってきて店に顔を出すと、ブタ店長は、私が立川まで行ってたことなんて忘れてたというふうに「あ、お疲れ」と一瞬こっちを見てまた鍋に視線を戻した

ある出勤日、「なんだか今日は店に行くのが嫌だな」と思って、その日から行くのをやめた。当然ブタ店長からはメールがたくさん来て、着信も10回くらい来たけど、「すみません、行けません。 片山」とメールを1通だけ送ってあとは着拒した。家のハンガーにはとんかつカズユキの制服とエプロンがずっと吊ってあって、ブタが別の店舗に左遷されたらいつか店へ返却に行こうと思っていた。でもその街を去るタイミングで捨てた。今思えば、そういうものは、そういう性癖の人のためにメルカリで売ったらよかったのだ。