無限ワンアップ・改

さゆゆのメモ箱

就職したい(第5話)

自分が障害者手帳を取得し、障害者として就労する可能性について考えたとき、とても不思議な気持ちになった。それは具体的にどういう感情なのかというと、

「私が……障害者……???」(俺がプリキュアに…?的な)

なんというか、ピンとこないのだ。

「障害者」という言葉と、みんなどのように対峙して生きているんだろうか。今の日本で、障害者という漠然とした像に対する偏見は根強いように思う。うまく言えないけど、たとえば…某24Hテレビとかに顕著だと思う。いわば「感動ポルノ」ってやつ。(でも、Nッテレに恨みはないし、この話題については今は主旨ではないのでパスします)

私は多分、ネットでも、そういう話題をわざと読まないようにフィルタリングしてた。無意識的に。それで、当事者として障害という観念に向き合って初めて、自分の中にある偏見に気づいた。「障害者」という言葉の中身が全然わかっていないまま今まで生きてきたということをやっと身体でわかったのだ。それこそ、自分がまさか某24Hに出演してるなんてイメージも全く描けない。そりゃびっくりするのも当然なのである。

ひとくちに障害といっても、いろいろ種類がある。手が動かせない人、耳が聞こえない人、吃音がある人、こだわりが強い人……。(前回の記事に書いたように)手帳の区分ですら身体・知的・精神の3つある。だけど、それすらわかったのは、最近になってから。たくさん本を読んだり、人と知り合ったり、話したり、何より自分が当事者になって初めて、知った。知ったというよりは、某氏の言い回しを借りると「解像度が上がった」。

LGBTはレインボーだけど、障害者と呼ばれる人たちもレインボーだなあと思った。みんな、できること・できないこと、得意なこと・苦手なことが微妙に違うのでひとことで表せない。というか、LGBTだとか障害者だとか関係なく、この世はみんなレインボーなのである。人間性というものはラベルを貼ってカテゴライズできるような簡単なものではない。みんな微妙に少しずつ違って、その人オリジナルの色ができている。

とは言っても、やはり偏見は、ある。自分が当事者だと思ってない頃の私ですら「偏見があるんだなあ」と思っていたくらいだから、やっぱり色濃いんだろう。そんなこの世で、「障害者」として就職し、生きることについて、私は考えを巡らせた。たくさんたくさん巡らせた。しかし何も答えが出なかったので、寝た。

翌日、とある友人と会った。その友人は手帳を取得しており、障害者就労でバリバリに働いている。友人とは大体10年くらいの付き合いになるけど、その間、友人にもいろいろあったのを私は見ていた。それで、(自分が当事者だと自覚してからは初めて)病気と就職についていろいろ話を聞いた。要約するとこんな感じ。

「手帳の取得については、さゆと、さゆの大切な人たちがそれをどう思うかだよ。さゆが手帳をとることでさゆの大切な人たちが嫌な目に遭うことがあるのならば、少し考えたほうがいいかもしれない。それは、さゆが病むから。だけど、自分が障害者として就職することを身近な人にオープンにする義務はないから、黙っていていい。公的な手続きとかで提示を求められたときに出せばいいだけだから。実家の家族にも、好きなタイミングで言えばいい」

大げさに考えることはない、自分が生きやすくなるならアイテムの1つとして使えばいい。それに手帳は、更新しなければ2年で有効期限がきれるらしい(結構めんどくせえ…)。

あ、なんか……「障害者」として就活をするのはそんな特別なことじゃないのかもしれないな。と思った。

 

私は、手帳取得の申請をすることに決めた。手帳を使って就職をするのか、使わないで就職するのかは、まだわからないけど、とりあえず申請をすることに決めた。

そして、いろんなことをいきいきと話してくれた友人を見て再度思った、私はやっぱりいつか必ず就職は、してみたい。

 

 

 

第6話に続く